2021/02/18

「きっと何かいいことがあるよ」という言葉は無責任で、

「生きててありがとう」は、誠実さを感じる。

 

先月から友人と外出する機会が増えた。

二人でお茶した後、目的も無く散歩に出る。

あるいはかねてから行きたかった場所に行ってみたり、遠出してみたりしている。

 

一人だと外に出るのがおっくうになる。

しかし、家に居たくない気持ちも大きく、宛もなく漂うことに苛立ちと不安を覚える。

彼女と外出すると、苛立ちも不安もなく、外に出ることができる。救いの様に感じている。

 

散歩に出ると、ほんの小さな事柄に目が留まったり、一つの事を深く深く考える機会が多くなる。

 

欠点も含めて自分の一部分であるというのは、とても大きな発見の様に感じた。

それをストレスなく受容できるか否かというのは、関係性の上でとても大きい。

うらやましくもあり、自分には永遠にないであろうことを考えて傷つく。

そこに飛び込んでいくことがある一種の自傷行為のようなものに感じることもある。

 

先日は、友人と遠出した。

山の中の自然運動公園と、古く満たされていた時代に住んでいた家や河原に。

長い滑り台、小さな遊具、土に埋まった土管。

遊具は変わってしまったけど、滑り台や土管は変わらずにそこにあった。

土管の遊具に意味もなく書かれた落書きが残っているのを目にしたときは、

とても複雑な気持ちになった。

「まだ、残っていたんだ」

それは、自分の記憶の中にも、実際の遊具にも。

 

公園でベンチに座りながら、公園の芝生を見ていると、

2歳ぐらいのころの自分が少し着ぶくれしたような姿でゆっくりと、

時々立ち止まりながら、遊具に歩いていく様子が見えた気がした。

 

帰りに友人と近くの海に寄った。

動きのある世界と止まった世界、海と陸の波。

遠くポールにワイヤーが当たる音を聞きながら、その1日を振り返る。

 

 

今、外は、春の風が吹いている。暖かく、春の香りを運ぶ。

梅の花が咲いている。

じきに暖かい日も増えて、野は緑になっていくのだろう。

 

また、遊ぼうよ。そう言って別れたい。

 

2021/02/05

連日で日記を書いている。
そんな自分に驚き、またそのことで生きることを楽しんでいる自分を認識する。

 

人と人との関係に名前を付けると窮屈になる。
だから関係性に名前を付けるのはやめようと思った。

関係性に名前を付けだすと、その関係性の枠からはみ出る自分を許せなくなる。
自分は自分だ。改めて思いなおす。

昔、誰だったかに言われた記憶がある。
人は苗字ではなく名前で呼びなさいと。
そういうことなんだと思った。

 

漂うことは、流れることではない。
皆、関係性に名前を付けたがるのは、確証が欲しいからなんだと思う。
その関係性に精神的に依存する。そのことで、精神の安定を保つ。
また、そういう関係性の流れの中で、自分自身を型にはめてしまう。
みなすべからく淋しいものなんだと覚った瞬間だった。

流れに身を任せているものからすると、それはわがままの様に写ったり、
或いは嫌みの様に感じて排除したくなるものなのかもしれない。
それこそ、流浪の民だと。
ただ、流されているのは、あなたたちの方だと、僕は思う。

 

午後8時に閉店を迎える飲食店を出て、電車に乗る。
電車のは西へ行き、どこかで引き返して東に戻る。
現代日本に生活するジプシーは終電まで電車に乗って往復を終える。

2021/02/04

八日目の蝉を読み、老けたことを実感する。

それは、とても緩やかに確実に自分の中にしみこんでいたことをしっかりと実感した。

昔、よく遊んでいた友人のカラオケでの十八番の一節を思い出す。
「君だけはオリジナルラブをつらぬいて」

 

子どもを育てるということについて、長く考え込んでいる。
それは、自分の養育環境のいいところ悪いところを整理するということでもあり、
自分の過去を認めるということでもあるんだと最近になって感じる。

自分はどう生きたいのか、自分にとって何が幸せで、どのような居心地の良さを求めているのか、そのうえで、自分自身が幸せを感じていないと、子も幸せを感じれないのではなかろうか。

 

日々、体は生まれ変わり続けている。死に続け生き続けている。
心や考えも時間とともに変わり続ける。
多くの人や社会は変化を嫌い、一貫性を求める。
しかし、人間というものは、3秒後にはすっかり変わってしまっているものだとふと思った。

その変化に自分自身の社会性が追い付いていないだけなんだとも思った。

不思議なものだなぁ。

2021/01/28

友人と夜の海へ行った。

海の近い駅で降りて、駅のホームで友人を待つ。

次の電車で友人がホームに降り立ち、その次の電車で橋の近くの駅に降りた。

特に何も考えず、海と橋を眺めて、そのまま海沿いに歩いて行った。

西へ西へと歩いていく。南には常に海がある。

できるだけ海の近くを歩いて、川や行き止まりがあれば引き返し、

堤防沿いをひたすら歩く。

 

冬の波打ち際を、夜の海を、眺めながら歩いていく。

海沿いに立ち並ぶ家々と高く反り立った堤防

消波堤の周りにあるテトラポット

静かな釣り人と光る浮

堤防の下の砂利道

河口近くの砂浜と、いくつも橋のかかった川

複雑な波の音

 

閉店30分前のコーヒーショップでコーヒーを買って飲む。

光る橋を眺めながら、海の音を聞きながら。

 

どこかのタイミングで少年に戻っていた気がする。

彼女は、堤防上の道から近くの駐車場に降りて行った時だという。

僕は、複雑な海の波の音を聞いた時だと思う。

あるいはそれよりも前、海を見てからか。

 

コーヒーショップからの眺め、机の下のそろった靴と橋。

少し肌寒い感じ。

 

コーヒーショップを出て、再びひたすらに歩く。
閉まっているゲストハウスや喫茶店を通り越し、

海の見える場所から何度も海を眺めて、

 

釣り人の多くいる海岸に出て、手すりにもたれかかって下を眺める。

月明かりが、小さな波に反射してうろこの様に光る。

あるいは、光る生物が潜っていくように光る。

また、円盤状の薄氷を水平に落としたときの様に、光が散らばっていく。

波や風に合わせて。

 

ずっと歩いて、僕らは、小さな灯台にたどり着いた。

灯台の下から見る海は、とてもきれいだった。

月を見て、自分の影を見る。

左を見れば、今まで歩いてきた海岸線と堤防が見える。

覗き込めばはるか下に海が、堤防に打ち付ける波が。

 

エルマーと竜の話をした。

まさしくこんな夜が描かれていた気がした。

どこへだって行けるということをすごく感じた。

 

永遠に居ることができそうな夜だった。

また、そのような時があるように、ありたい。

 

2021/01/25

不思議なことに、僕は今喫茶店にいる。

コーヒーを飲んでいる。

 

最近、いやだいぶ前から自分の感情がわからなくなることを感じている。

悲しいのか、嬉しいのか、あるいは何か別の感情を感じているのか。

 

「乞食と馬」というお話を読んだ。
馬になつかれた乞食は、お金を恵んでもらえなくなるばかりか、
怪訝な目で見られるようになり、最後は馬にむしろまで奪われてしまう。
しかし馬は何の悪気もなく乞食になついていて、
別の街へ行こうとする乞食の後を突いてくる。

あの様子、感情は時々僕も感じている。
言葉にならないから出せないだけで。
何か、自分の深い部分にどうしようもなく横たわっている。

 

自分の感情を時々疑う。
自分では、嬉しいと思っていても、よく見ている人からは嫌がっている様に見えることがあるらしい。
そういう時、僕は本当はどうしたいんだろうか?と自分自身を疑う。
そうしたいのかしたくないのか、わからないとき、YESあるいはNOと答えるのは簡単なことだけれど、果たして本当にそれが自分の気持ちを表しているのか、
あるいは、そう言わされているだけなのか、もしくは何か相手に対して依存しているだけなのか、わからなくなる。

 

わからないまま生きている。

2021/01/12

ベランダに出て煙草に火をつけると、飛行機の音がしていた。
伊丹空港から飛び立った飛行機は、東の空へと飛び立っていった。
時刻は18時55分。

冬の空は暗く、街と空の地平線は、薄明るく輝いていた。
日の出を待ちきれない人々が乗っているのだろうか。
あるいは薄明かりの中に光を求めていったのだろうか。


室内に戻ると、おなかがすいていることを思い出した。
昼から何も食べていないことに気づく。
あとで干し芋でも食べよう。どこかにあったはずだ。

氷解の感触は、突然の様にやってきた。
自分の中にある何かが解けたような感触がした。
自分の心の中にある何かがふっと解けた感触。
あれは、何だったんだろうか。

今、部屋を見渡せば、さっきまでとても暗かった部屋が明るく見える。
心のままに生きるのは難しい。されど、蒸発するには理由もない。
鬱屈とした、冷たい雪のような感触は解けゆき、
ただそこにあったことを物語る水たまりだけが残っている感触。
おそらくそれはいずれ蒸発してしまう。

書き留めておかなければ。
記しておかなければ。

2021/01/08

年末から年始にかけて様々なことがあった。

 

一つは実家に帰って、実家の少し不自然な人間関係に気づいたことだ。
人は意図せず自分の中に複数の自分を用意していることがある。
その複数の自分を認識することができず、暴走すると、引き戻されてしまうのだろう。
そう思った。

 

二つ、友人と遊んだことだ。
彼はとても繊細であることにはたと気が付いた。
とても有意義な時間だった。
僕は彼と変わらずに友人であり続けるだろう。

 

三つ、さらに友人ができた。
彼女はパラレルワールドの自分と僕は思っている。
言葉にすると違うが、大まかには同じ事を考えている。
きっと積んできた経験も似たところがあるのだろう。
行動原理も似たものがあるのかもしれない。
友人として話をすることで、互いに成長できていると感じている。

 

四つ、自分は何者なのかを考えるようになった。
いまさらなのかもしれないが、これは自分にとって大切なことだと思う。
自分がいいと思うことは何なのか、悪いと思うことは何なのか、整理を進めている。
深く深く自分を分析することで、自分の根本にある不安感を発見できた。
その漠然とした不安感こそがカギだと思っている。今は。

 

そして、今朝のベランダから差し込む光はとても美しかった。

僕は今年も書き続けるだろう。
この瞬間、僕は何を感じるのか、何を思うのか、それを大事にしていきたい。